10年前のあの日、埼玉県の大宮にいました。
人生で初めてインフルエンザにかかり、仕事を休んで、自宅で布団にくるまりながらテレビを観ているときに地震が起きました。
揺れが大きい、そして長い。
建物自体が崩れてしまうのではないかと思いました。
(当時住んでいたアパートは前の道路をトラックが通る度に揺れるような安っぽい造りだったのです。)
高熱で朦朧としている中で、外に逃げるべきなのか否かを考えた結果、3階建て?4階建て?の最上階に住んでいたので、上から落ちてくるのは薄っぺらい天井ぐらいだ。
布団にくるまって、頭さえ守れば建物が崩れても生き延びれるのではないかという安易な発想を採用して過ごしていました。
幸い、建物が崩れることはありませんでした。
テレビの報道を観ていると、"お台場の駐車場が燃えている"から始まり、化学工場で煙が上がっている、原子力発電所で煙が上がっている・・・
そして、大津波・・・。
家にいたので、その一部始終をテレビを通して見ていました。
次は、富士山が噴火するのではないか?月が落下してくるのではないか?と思えるあり得ないことが次々と起こりました。
数日後、インフルエンザは治り、指示された自宅隔離期間を終えて出勤します。
職場の同僚は遠方から来ている人らが多く、最も遠い人は横浜から通っている人もいて、帰宅難民となって大変だったと聞きました。
当時、自分は自転車通勤で、アパートから職場の間にさいたまスーパーアリーナがあります。
そこは震災地から避難して来た人たちが集まる避難場所となっていました。
ある日、仕事を終えて夕方ごろ、アパートに戻るとき、
さいたまスーパーアリーナの近くで自転車を降りて歩きました。
(※部外者は中に入ってはいけないので、外周だけです。)
たまたま中学生か高校生ぐらいの2人の女の子が柵にもたれかかりながら話している会話が聞こえてきて、
「これからどうなってしまうのだろう」とつぶやく言葉が聞こえました。
当時は会社員だったので、自分が今やるべきことをやろうという気持ちでいました。
その当時からベトナムで働きたいという気持ちを抱いていました。
そして、数年後、ベトナムで働きたい・住みたいという夢は実現します。
それから「その先」を考えたとき、もしベトナムでの仕事がうまくいかずベトナムにいられなくなって日本へ戻ることになったら、
復興のための仕事に就こうと考えました。
幸い、未だベトナムで活動できています。
けれど、故郷である福島を復興を願う気持ちも変わっていません。
今も昔もベトナムからできることを発信し続けていきたいと思っています。
そして、多くの命が失われ、破壊され、心に癒えぬ傷を抱えた人たちが大勢いることを忘れず、
ベトナムのホーチミンから心より鎮魂の祈りが捧げます。